マセラティ チュバスコ▲モデナのマセラティ・ミュージアムにディスプレイされたマセラティ チュバスコ(写真奥)。このモックアップのみが存在している。なお、手前のモデルはブランド100周年を記念したコンセプトカー「アルフィエーリ」
 

スーパーカーという特殊なカテゴリーはビジネスモデルとして非常に面白く、それ故に車好きにとって興味深いエピソードが生まれやすい。しかし、あまりにも価格がスーパーなため、多くの人はそのビジネスのほんの一端しか知ることができない。

今回は、マセラティ ミュージアムにモックアップが唯一存在している、幻のマセラティ・ハイエンドスーパーカー「チュバスコ」を紹介する。
 

マセラティ・ミュージアムに唯一存在するモックアップ

先だってモデナのCollezione Maserati Umberto Panini(通称マセラティ・ミュージアム)がリニューアルオープンした。その起源は1960年代、オルシ家時代のファクトリーミュージアムにあるが、歴代マセラティの重要なモデルを満喫することができる素晴らしい空間だ。

そのコレクション展示の中で唯一、不動のモックアップがディスプレイされているのだが、それが今回のお題であるマセラティ チュバスコであり、今年はその生誕35周年にあたる。
 

マセラティ チュバスコ▲1990年末に開かれたマセラティのイベントで発表された「チュバスコ」。デザインはマルチェロ・ガンディーニが手がけている

チュバスコは1990年末、マセラティのオーナーであったアレッサンドロ・デ・トマソがジャーナリストたちを集めて、一説ぶるという恒例のイベントにて、超サプライズとして発表された。お化粧直しをしたビトゥルボを、毎年のように披露していたから、皆はさしたる期待もしていなかったからだ。ちなみに、筆者もそう考えてわざわざモデナまで足を運ぼうとは考えもしなかった。今となっては残念だ。

デ・トマソがデ・トマソ マングスタなどで採用してきたセンターバックボーンシャーシをベースに新開発3.2L V8ツインターボエンジンを縦置きにミッドマウントし、430psを発揮するというスペックでチュバスコは発表された。スタイリングはガンディーニの手によるもので、当時、彼が関わっていたブガッティ EB110などに通ずるモチーフが見られる。しばらく空白であったマセラティのハイエンドスーパーカーの登場は大きな驚きをもって受け止められたのだ。

しかし、チュバスコはそのセンセーショナルな初動だけで終わってしまった。鳴り物入りで発表したは良いが、その後、商品化されることはなく、現在、マセラティミュージアムに展示されている原寸大のモックアップが唯一の成果物なのだ。この当時、マセラティではこのチュバスコをはじめとして多くのプロジェクトが検討されており、それらの目的は、ビトゥルボ系プラットフォームから脱却したより大型GTカー路線への回帰であった。つまり、ボーラやカムシンなど1970年代のマセラティにおけるメインストリームたるV8大排気量モデルの再ラインナップがアレッサンドロ・デ・トマソの悲願であった。

1980年代終わりのヨーロッパにおける自動車ビジネスは芳しいものではなかった。完成車両のクオリティの低さで需要は低迷した。また、それまでメインであった北米マーケット参入が、エアバッグの義務化などホモロゲーション問題で難しくなった。そこへ元気のよい日本車が大量に流れ込んできたものだから、さんざんであったのだ。
 

マセラティ チュバスコ▲ボディサイズは全長4365×全幅2014×全高1124mm
マセラティ チュバスコ▲ガンディーニが手がけた他のモデルをほうふつとさせる、デタッチャブルルーフやシザードアも採用されている

アレッサンドロのマセラティへの“最後の夢”

マセラティは1980年代前半に廉価な小型モデル、ビトウルボの大ヒットでモデナ地区最大の量産メーカーへとなったものの、クオリティ問題やマーケティングの失敗によって1980年代後半には一気に業績が悪化していた。北米市場からも撤退を余儀なくされ、もはやビトゥルボ・シリーズのような廉価モデルを大量に販売するというビジネス構造を維持することは不可能であった。

そこで、アレッサンドロ・デ・トマソは、マセラティの未来に向けて幾つかの選択肢を考えた。ひとつ目はマセラティが失ってしまった北米市場で何とかビジネスを継続するために、クライスラーのトップであったリー・アイアコッカと手を組むという選択肢だった。1986年にはクライスラーへマセラティ株の15%余りを手渡しており、その資金を使って開発を進めたのがクライスラーTC バイ・マセラティであった。しかし、ご存じのようにこのモデルは大失敗に終わってしまった。そこでもうひとつの選択肢として考えられたのは、少量生産スーパーカーのラインナップであり、これが今回のお題であるチュバスコのプロジェクトだったのだ。

1989年に、マセラティは資金調達のため、株式の49%をフィアットへ売却し、ついにフィアットグループの仲間入りをしていた。そのため、このチュバスコが商品化されなかった理由として、フェラーリとの競合をフィアットが恐れたためとちまたで語られることがあった。つまり、同じグループ内でフェラーリのプロダクトと競合するため、政治的横やりでプロジェクトをお蔵入りにせざるを得なかったという説だ。

しかし、当時の関係者の多くはこの説を否定する。そこまでマセラティがフェラーリのライバルとして恐れられたはずがないというのだ。事実、チュバスコのマーケティングに関して、マセラティは事前に世界中のディーラーと、やり取りを重ねていたし、フィアットのスタッフがすでにマセラティに入っていたから、秘密裡にプレゼンテーションを進めるなど不可能だというのだ。

要は、プロジェクトは進行していたものの、採算がとれるだけの販売が見込まれず、キャンセルになったということだったのだ。彼らが想定したチュバスコの販売プランは当時、センセーショナルな人気を誇ったフェラーリ F40よりも2~3割高い価格設定であり、それを450台は販売しなければならないというもので、そのビジネスストラクチャーはあまりに無謀であった。

バブル経済に沸く日本は当時、マセラティの大きなマーケットであったから、このチュバスコの販売見込みに関して、強いプレッシャーがあったようだが、折からの湾岸戦争による景気後退の影響もあり、積極的なリアクションは難しかったという。
 

アレッサンドロ・デ・トマソ▲デ・トマソを創設、1975年からマセラティの経営にも携わったアレッサンドロ・デ・トマソ。アルゼンチン出身で元F1レーサーでもあった

残念ながらチュバスコの製品化は実現しなかったが、アレッサンドロ・デ・トマソもタダでは起きなかった。チュバスコで想定していたシャシー・レイアウトは1992年にワンメイクレースを想定したマセラティ バルケッタとしてデビューすることになったし、V6ビトゥルボエンジンをベースとしたV8エンジンは1991年に市販モデルのシャマルに用いられた。

アレッサンドロ・デ・トマソによるマセラティの新しい方向性の模索であるが、必ずしもそれは成功したとは言えなかった。しかし、この時期に彼が企画したマセラティの本格的GT復活への取り組みのひとつは、ルカ・ディ・モンテゼーモロの時代に3200GTとして完成した。アレッサンドロ・デ・トマソがジョルジェット・ジウジアーロにペンを取らせたFRハイパフォーマンスGTは、オリジナルの大型シャシーの開発は果たせなかったものの、マセラティの未来のために大きな力となってくれた。

1993年に心筋梗塞で倒れビジネス生命を失ってしまったアレッサンドロ・デ・トマソにとってこのチュバスコは、彼のマセラティへの最後の夢となってしまったのだ。
 

マセラティ・ミュージアム▲リニューアルオープンしたCollezione Maserati Umberto Panini(通称マセラティ・ミュージアム)
マセラティ・ミュージアム▲ミュージアムは往年のレーシングカーから最新プロトタイプまで、マセラティのみが飾られている
3.2L V8ツインターボエンジン▲最高出力430psの3.2L V8ツインターボエンジンを縦置きにミッドマウント。このエンジンはシャマルにも採用された
マセラティ シャマル▲1989年に発表されたマセラティ シャマル。こちらもガンディーニがデザインを手がけている
マセラティ バルケッタ ▲ワンメイクレース用に開発された「マセラティ バルケッタ」。1992年から1993年に17台のみが生産された
文=越湖信一、写真=マセラティ、Collezione Maserati Umberto Panini
越湖信一

自動車ジャーナリスト

越湖信一

年間の大半をイタリアで過ごす自動車ジャーナリスト。モデナ、トリノの多くの自動車関係者と深いつながりを持つ。マセラティ・クラブ・オブ・ジャパンの代表を務め、現在は会長職に。著書に「フェラーリ・ランボルギーニ・マセラティ 伝説を生み出すブランディング」「Maserati Complete Guide Ⅱ」などがある。